『むらさきのスカートの女』今村夏子/あなたと友達になりたいだけなのに
2019年上半期の芥川賞受賞作、今村夏子さんの『むらさきのスカートの女』を読みました。
タイトルと装画が妙に気になり、ここのところは古い作品を読みたい気分だったのですが、これだけは見過ごすことができませんでした。大体、「〇〇の女(男)」というような、アイデンティティが強いものに、人は興味を持たざるを得ないような気がします。
読みやすい文体と、早く結末を見届けたい好奇心とで、読書時間はあっという間の出来事でした。
それでは、読書感想文を記したいと思います。
あらすじ
むらさきのスカートの女と呼ばれる一風変わった女性と友達になりたい”わたし”。
求職中のむらさきのスカートの女に、自分の職場の面接を受けるよう誘導したことを皮切りに、四六時中つけ回すようになる。
あることがきっかけで、職場で疑いを持たれるようになったむらさきのスカートの女を救済しようと、わたしはついに行動を起こす。
感想
なぜか気になるむらさきのスカートの女
むらさきのスカートの女は地域の有名人で、「むらさきのスカートの女を一日に二回見ると良いことがある」というジンクスができるほどの人物です。
こういう”地域の名物おばさん(おじさん)”というのは、誰しも一人は巡り合ったことがあると思います。
例えば、私が高校生の頃には、二人乗りをしている学生を見かけたら、マウンテンバイクで猛スピードで追いかけてくる”マウンテンバイクおじさん”がいました。みんな怖がりながらも、おじさんが機嫌よくマウンテンバイクを漕いでいるのを見かけるとしばらく様子を観察したり、中には、わざとおじさんの前で二人乗りをして、追いかけられるのを楽しんだりする学生もいました。
むらさきのスカートの女も、話しかけることはできないけれど、なぜか気になる存在として地域の人々から好意を持たれています。
こういう人について話をするのは、ある種のタブーのようでもあり、実際には多くの人が気になって仕方ないのではないでしょうか。
社会は特異な人間の視点に目を向け始めている
読者は比較的序盤で、語り手である”わたし”の異常さに気づきます。むらさきのスカートの女を尾行するために、毎日同じバスに乗り合わせる、職場を無断欠席する、などの行動を平然と遂行するからです。
はじめは「こういう人って観察したくなるよね」と共感できる部分もあるのですが、割とすぐに”わたし”がストーカーだということに気づかされます。それ以降は、”わたし”の淡々とした異常さに背筋を凍らせつつ、ときには「えっ」と声に出したりしながら、物語がどう着地するのかをただただ待ちわびます。ストーカーがどういう心理状態で行動を起こしているのかを追体験するのです。
ここで、2016年上半期に芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの『コンビニ人間』を思い出します。
『コンビニ人間』は、おそらくは発達障害やADHDといった、”普通”ではない人の目線で描かれた物語でした。今ではそういった人たちの存在は広く世間に認知されていますが、”普通”の人たちにとって、彼らの心理を理解することはなかなかに困難です。
そこで、彼らの心理を追体験できる画期的な作品が『コンビニ人間』だったのですが、これは『むらさきのスカートの女』にも共通して言えることだと思います。
私たちはストーカーというものに対して恐れ、排除しようとしますが、彼らの立場に立ってみると、そこには「あの人と仲良くなりたい」一心の純粋な気持ちを感じます。その結果、周りが見えなくなり、手段も選ばなくなってしまうのだと、驚かされながらも筋が通っているように思えるのです。
先程も述べたように、こういう存在を描くというのは、これまではタブーのようでしたが、”普通”でない人がありふれている時代だからこそ、人類はそのタブーを乗り越えなければいけない時に来ているのではないでしょうか。
おわりに
今、ちょうど夏休みですね。
夏休みと言えば、宿題の読書感想文が気が重いというお子さんもいらっしゃるかもしれませんが、もし図書の選定に迷っているのなら、『むらさきのスカートの女』は意外とありだと思います。いや、でも指定図書の学校が多いのかな…?
小学生には一部不適応な描写もあるかもしれませんが、中学生くらいなら…と個人的には感じます。
大人よりも多様性を認める社会を生きている子どもたちにとって、この本はどのように感じるのでしょうか。