『一月物語』平野啓一郎/幻想美と古典美の妙に舌を巻く
平野啓一郎を読むのはこれで3冊目になります。
1冊目は『ある男』。2冊目は『マチネの終わりに』。3冊目がこの『日蝕』と『一月物語(いちげつものがたり)』が同時収録された1冊。
この3冊に共通して言えることは、ほとんど何もない。唯一言えるとすれば、著者の膨大な知識量に圧倒されることくらい。
それぞれの作風に共通点がなく、まるで別の作家が書いた小説のように感じます。
今回は、「日蝕/一月物語」から、暑い夏の出来事が幻想的に綴られた『一月物語』についてご紹介します。
あらすじ
気鬱に侵されている青年 井原真拆は、旅をすることを慰めとしていた。
ある旅の途中、真拆は山中で蛇に噛まれ気を失い、目が覚めたときには、山奥の寺で円祐という和尚に看病されていた。和尚からは寺の奥の小屋には、病を患った老婆がいるため、近づかないようにと釘を差される。
怪我が良くなるまで、真拆は寺で過ごすことになるが、毎夜のように裸の女の夢を見る。そして徐々に夢の女に格別の情を抱くように。
感想
古典的言語を巧みに用いた現代作家による御伽話
作品全体に幻想的な空気が漂っているのですが、同時に、「浦島太郎」や「竹取物語」といった、戒めを伝える御伽話のような印象も受けます。
解説ではこれを「神話」という言葉で表現していました。
平野啓一郎は言わずもがな存命で、第一線で活躍中の作家ですが、この作品には古文を思わせる表現がふんだんに盛り込まれています。
仏教用語や中国古典を引用したような熟語で満たされており、ちょっと気軽に読んでみようと思ったら、どかーんと面食らうような作品です。
その結果、私の読書ノートは単語帳へと様変わりしました。
もちろん、意味がわからなければわからないなりに読み進めることも可能なのですが、なぜか平野啓一郎の作品には、そうさせてくれない魔力があります。
ひとつの言葉の意味を知ることが、この作品の時代背景や、この熟語でしか言い表せられなかった情景を思い描くことと、密に接しているように感じられるのです。そういった日本語表現の極限にある作品のようにも思えます。
巻末の評論によると、この『一月物語』と、芥川賞受賞作の『日蝕』、そして『葬送』の初期の3作をひっくるめて”ロマンティック3部作”と銘打たれており、3作の特徴は、擬古典的であることだそう。
私は『葬送』は未読ですが、『日蝕』も『一月物語』も、西洋、日本という違いはあれど、なるほど、たしかにロマンティックで擬古典的です。
巧みな言葉で美しく彩られた文章
読み応えのある文章があちらこちらに散りばめられているのですが、特に心に留まった秀麗な文章について、抜粋にてご紹介したいと思います。
P.235
遠くから、鳴き声だけを届けつつ、ゆっくりと近づいて、フッと留まった蚊のように、漸く戻ってきた意識は、うっかりすると、またふらふらと飛んで行ってしまいそうである。
昏睡から目覚めたばかりで定まらない意識を、「蚊」に例えた言い得て妙な表現。
P.229
夜が満ち始めていた。山中では、闇は底に、底に、と溜まってゆく。それが何時しか踝を呑み、膝を呑み、気がつけば胸にまで迫っている。それでも、闇の潮は引かない。首を呑み、頭上を遥かに、更に幾重にも満たしながら、山を呑み、晩霞を呑み、やがては穹をも呑み尽くそうとする。死んだ魚が、深海で水面を彼方に望むように、その細鱗が月光にもはや耀かぬように、そうして世界も、闇と倶に、底に、底に。
山中で、闇が主人公を足元から呑み込んで行く様子が、ゆったりとした表現により、丁寧に描かれている。
P.362
至る所に看られた生命の放恣な噴出は、凋落のあとに沈んで今日は名残だにない。
この一文で庭の栄枯盛衰の様子が感じ取れる。
美しい文章がページをめくる手を止めるので、そもそもの遅読に拍車がかかり大変でした。
おわりに
はじめに述べたとおり、近年の平野啓一郎の作風と初期の作風は全く異なるのですが、初期の作品がやはり源流にあるんだろうという印象を受けました。
大学時代までに集積された、西洋古典や中国・日本古典の膨大な知識が色濃く作品に反映されているのではないかと想像します。
そのため、読めば読むほど奥深く、知識欲が満たされると共に、自分の無知を暴かれた気分になるのです…。